安東金氏の勢道政治-純祖から哲宗まで
1800年、純祖は10歳で即位したため、英祖の継妃であった貞純王后が代わりに執政を行った。
貞純王后は蕩平政治を完全にやめ、僻派の利権を優先する政策を採った。
そのために蕩平支持派の勢力を大量殺戮し、僻派の要人を大量登用して僻派政権を樹立させる。
一方で、1801年、王朝を守るためとの理由でカトリックの弾圧を強化した。
この弾圧でカトリック信者、巻き込まれた者もあわせて数万人が犠牲になったと言われている。
カトリックへの弾圧はこの後も1815年、1827年、1838年など、断続的に行われた。
1802年、金祖淳の娘が王妃になる。
1804年、14歳になった純祖による親政が始まった。
金祖淳は時派に属していたが、党派色を表に出さない事で貞純王后の士禍から逃れることが出来た。
1805年貞純王后が亡くなると、金祖淳は王の外戚として政治の補佐を行うようになり、貞純王后によって登用された僻派の要人を大量追放する。
その一方で、王の政治を補佐するとの名目で、自分の本貫である安東金氏の一族から大量に人材を登用する。
このことで士林派による政治は終焉を迎えた。
貞純王后は蕩平政治を完全にやめ、僻派の利権を優先する政策を採った。
そのために蕩平支持派の勢力を大量殺戮し、僻派の要人を大量登用して僻派政権を樹立させる。
一方で、1801年、王朝を守るためとの理由でカトリックの弾圧を強化した。
この弾圧でカトリック信者、巻き込まれた者もあわせて数万人が犠牲になったと言われている。
カトリックへの弾圧はこの後も1815年、1827年、1838年など、断続的に行われた。
1802年、金祖淳の娘が王妃になる。
1804年、14歳になった純祖による親政が始まった。
金祖淳は時派に属していたが、党派色を表に出さない事で貞純王后の士禍から逃れることが出来た。
1805年貞純王后が亡くなると、金祖淳は王の外戚として政治の補佐を行うようになり、貞純王后によって登用された僻派の要人を大量追放する。
その一方で、王の政治を補佐するとの名目で、自分の本貫である安東金氏の一族から大量に人材を登用する。
このことで士林派による政治は終焉を迎えた。
update:2010年02月22日
